[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
知らなければ損をする。闘わなければバカをみる。
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「我々日本人はフランスの人々と常に共にある。強い連携を表明する。テロを断固非難する」
11月に起きたパリの同時テロのときの安倍首相の発言である。
価値観を共有するもの同士として、ごく普通のコメントとは思う。にもかかわらず、なんか不愉快なかんじがするのはなんでだろう。
ドイツのメルケル首相が「私の心はテロの犠牲者とその家族、パリの市民と共にある。我々はフランスと共に泣いている」と言うのはわかる。イギリスのキャメロン首相も同じようなことを言っている。アメリカのオバマ大統領やロシアのプーチン大統領、中国の習国家主席は、テロを許さないとしながらも友だち然とした発言はしていない。
安倍総理の発言はなんか浮いている。
その場の雰囲気とかに酔う人なのかな。
記事を切り抜いたまま放置してあった日経新聞を読みなおしてみて、恐ろしいテロ事件であるにもかかわらず、なにか違和感を覚えてしまうのはなぜだろう、何が気に食わないのか…と考えていた。週刊金曜日にアメリカのジャーナリスト:マイケル・ペンが「パリのテロ事件~命の重さの不平等」という記事を書いていた。
各国からフランスの人々に寄せられた同情と応援は心を打つものだった。だがしかし…
フランスが世界の同情を一身に集めているのは、犯罪の深刻さのためではなく、犠牲になったのが特定の国民だからだという結論に達せざるを得ない。要するに、犠牲者が豊かな西側諸国の、雄弁で高い教育を受けた市民だから、私たちもパリ市民に自分自身を重ね合わせ、共感しやすいのだ。
他の場所でも、時にはパリのテロ以上に極めて悲惨な事件が起きていた。だが、世界の人々の心は揺さぶられなかった。そんな事件の存在さえ気づかないことがしばしばあった。
パリのテロ事件のわずか1日前、まさしく同じテロ集団ISがレバノンの首都ベイルートで自爆攻撃をしかけ、43人が死亡し、200人以上が負傷した。ベイルートの犠牲者はパリの犠牲者同様、無実の市井の人々であったが、果たしてパリのテロと同じように広く報道されたり、事件に心を動かされたと言えるだろうか。
安倍総理の発言への不快感もこのへんにあるのかもしれない。
巷にあふれるテロを許さない!!!という正論への嫌悪感も同じである。
他人の痛みは他人事でとんと平気なのだが、自分のこととなると断じて許せず、「上」とみなす者に対しては、許せませんよね~と媚びへつらう、卑屈で傲慢な民族性が露見されていていたたまれない。
東京駅の百貨店のトイレは、男性用の小便器が個室に設置されているそうです。小中学校の中には、大の用を足すとからかわれるという理由で、男子用の小便器を廃止し、個室のみになっているところもあるとか。
排泄というのはとてもとてもプライベートな事柄ですからそういうこともありなのかも…と思ったりしますが、どーも日本のこの常識と異なる常識を持つ国々があるようです。
比較文学・ロシア文学研究者のヨコタ村上孝之さんが、新聞紙上でトイレから見えるお国柄というお話をされています。
座り式のトイレを洋式と呼んでいるので、西洋のトイレはすべて洋式だと思われているかもしれないが、ロシアや東欧はしゃがみ式が主流で、西欧でも農村はしゃがみ式が当たり前ということです。
そういえばずいぶん前だがイタリア旅行の際、フィレンツェのカフェでトイレに入ったら和式?のトイレだったのでずいぶん不思議な気分になりました。もちろん戸惑いはありませんでしたが!
日本ではトイレは個室が当たり前ですが(女性)、中国やインドなどアジアの国々では仕切りがなかったり、路上から顔が見えたりと、なかなかオープンなようです。ソチオリンピックでは、仕切りのないトイレが設置されていて話題になったそうですね。
日本では女性トイレに「音姫」なる消音装置が設置されていることも多く、よく使用されています。昔チラッと聞いたところでは、排泄音を隠すために何度も水を流す人が多く、水の無駄使いになっているため開発されたとか。
排泄音は恥ずかしい音なんですね。
私は実はあんまり恥ずかしくないほうだったのですが、月10日勤務する役所でみんなが音姫を使っているので、だんだん排泄音が恥ずかしくなってきました…
ところで、プライバシーってプライベートとよく似た言葉ですが、どういう意味なんでしょうね。なんとなくはわかるんですよ、プライバシーの侵害だとか、守るべきプライバシーだとか使いますから。
調べてみると、「他人の干渉を許さない、私生活上の自由」となっています。
排泄中の姿はもちろん、排泄音まで隠す日本人と、オープン排泄の国の人たちとはプライバシー観がまったく異なるってことですね。
ヨコタ村上さんは、多くの日本人が持っている常識は世界に通用するのか、そんな疑問を提起したくて『世界のしゃがみ方』という本を書かれたそうです。違いを知ったうえでどう利用していくのか。そんなきっかけになればうれしいです、とのことでした。
トイレに限らず、それぞれの国の歴史や社会事情、経済事情、文化や感性の違いで常識は異なってくるものです。
違いはときに(多くの場合か)排除を生みますが、違いそのものは「面白い!」ものです。自分のやり方を正しいと決めつけるのも爽快かもしれませんが、ときに正しくないことを試してみるのもいいもんです。