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知らなければ損をする。闘わなければバカをみる。
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ジョブのスキルがないから就職できない若者を「訓練」して使い物になるようにしてやるという欧米の発想からすると、スキルなどという枝葉末節なんかではなく、人格の根源を叩き潰して蘇らせる新興宗教まがいの「研修」はほとんど想像の外でしょうが、それこそ社会の基本ルールがジョブではなくメンバーシップである社会であればこそ、そこで評価されるのもスキルなどという下賤な代物ではなく全身全霊を挙げて会社に尽くすロイヤルティなのであってみれば、そこに全精力を傾注して若者を「使い物になる」ようにしてやろうというのは、少なくとも社会的文法(ソシオグラマー)には忠実に沿ったものと言ってあげてもいいのかも知れません。そして、いうまでもなくそういう社会的文法を見事に下支えしているのが、大学で教えているのは「無用の用」なんだから、会社に入ってから徹底的に鍛えてやってくださいといって送り出している「文科系」の諸先生方なんですが。まあ、そういう社会学的考察は、しなくても別にいいんですけどね。
教育問題ともリンクしていて、見える化しても複雑さは変わりません。最近、見える化=単純化がはやってますが…
労働行政側にしてみたら、雇用されて働く者は労働者で、その労働者が仕事に関連して受ける教育などは訓練である。仕事に関連した訓練なのだから当然技能・技術を学ぶものである。
生きるとは?人生とは?あなたにとって仕事とは?というようなことをグループで話し合ったり、仕事と全く関係のない経歴を持つ素性の怪しい講師から人生論を聞かされたりする「研修」なるものにカネを出す気はない。
だが、研修を受ける側は「労働者」という言葉同様に、「訓練」も嫌がる。スタッフや職員、社員が受けたいのは人生や哲学、コミュニケーションといった精神性に富む?「研修」である。資格だの技能だの技術だの、そんなんものはどうでもよく、人間としていかに生きるか、どうあるべきか、それが自分たち働くものにとって最も大事なことなのだ!と思っている。
かくして作文技術がものをいうことになるのだが…