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なんか気分が沈んでしょうがない。かつて流行った細木数子(どこに雲隠れしてるんだろう)の六星占術でいうところの大殺界とか中小殺界なのだろうか…

前にもこんな気分になったことがあったなぁと思い、過去のブログを検索してみたら出てきた。

できないヤツに限って他人のことをとやかく言う…

うつうつとして、仕事に対するモチベーションが上がらない。そんなもん上がらなくったって、仕事は仕事、やるべきことをやれよって?そりゃそうだろうけど、やるべきことがなんなのか、それがわからない。今日ためしに、タラタラのんびりサボりながら仕事をしてみた。いつもタラタラのんびりしているヤツや、手抜き以前のひどい仕事ぶりのヤツがイラついてるのがよくわかりおかしかった。いつもいっしょうけんめいに仕事をしている人は(よく走っている)私のサボりを知ってか知らずか、いつもと全く変わらない様子で、相変わらずいっしょうけんめいだった。私はいつも他人にイラつく。なんか他人がズルこいてるような気がするのだ。はっきりと意識してそう思っているわけではない。もっともらしい理由は自分なりにあげている。だが、どうも本当のところは、自分ばかりが損をしているようで面白くないのだろう。けど、なんでそう思うのだろう?今日あてつけがましくタラタラダラダラ仕事をしてみて、他のヤツの反応を見て、気づいた。いつもいっしょうけんめいな人は、その人自身がよく動いている。私は反対だ。自分と同じくらい、いやそれ以上に他人がいっしょうけんめいに動いていないとすごく腹が立つ。何かをするのは自分ではなく他人と思っているのだ。自分のことを棚に上げて言うが、他人を責めたり、攻撃したり、愚痴ったり、とにかく他人のことばかりとやかく言うのは本当に見苦しいし、うんざりくるし、そういうあんたが一番ひどいよ、と思うものだ。そういうやつを見て反面教師とするのは不可能だ。自分も同じなのに、自分のほうがまだマシ、ああならないようにしようなどととんでもない勘違いをしてしまうのだ。往々にして自分のほうがひどいのに。いつもいっしょうけんめいな人は、人のことをとやかく言わない。本当だ。こんな人をだんなにしている元同僚がすごいと思う。どんな男を選ぶかで女の度量・技量がわかる。どうせ男も同じことを考えてるんだろうけど。全く逆だからね!!

5年前の日記だが、これを読んで思った。全然成長してないな…
ただ月日が過ぎるだけじゃ人間は成長しない。当たり前だ。子どもなら0歳から5歳になれば大成長だが、40歳のオバハンが45歳になったからって、しわやシミが増えるだけで成長はない。

自分では資格も取得しちょっとは前進したように感じていたのだが、錯覚だった。
たまには過去の日記を読み返すものだ。

5年前と全然変わってないことがはっきりとわかった。

よし、修正だ。5年後ちゃんと仕事ができるようになろう。
 
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雇用されている労働者は労働の途中に休憩が与えられる。(休憩がない。と言う労働者もいるが…もちろん違法!!)

労働時間に応じて45分だったり1時間だったり。これは最低の基準なので多くてもよい。もっとも、休憩時間は無給であることが普通なので多くもらっても困ることが多い。終業時間が遅くなったり
給料が減ったり…

私は45分がちょうどよく(30分でもかまわないのだが…)、1時間だと持て余してしまう。かつて繁華街に近い場所で勤務していたとき、1時間半の休憩のことがあったがこれは嬉しかった。環境など諸事情によっても違うのである。

辺鄙な場所で過ごす場所もないのでは1時間の休憩は正直なところ苦痛であったりする。

今現在、月に10日の役所勤務であるが、1時間の休憩がもったいなく、かつ苦痛である。

小部屋のようなところで持参のお弁当を食べた後は、天気が悪くなければ周辺をぶらぶらするが、つまらない。休憩は一斉で時間も決まっている。30分で切り上げて早く帰宅したいというのが正直なところである。

ところで、休憩は使用者が労働者に与えなければならないものだが、その上限(何時間与えるか)はドライバー以外に制限はないようだ。業務の都合で3~4時間休憩というのはありなのだろうか。飲食店ではよくあることと思うのだが、社会通念上相当の理由だとか、公序良俗に反しないとかそういう基準なのだろうか。

昼と夜の営業のため休憩がいつも3~4時間あるのはなんとなくいいかんじがするが、人件費や繁閑の関係である日の休憩が3~4時間になってしまうのはなんとなくダメなかんじがする。

休憩の与え方については、規定されていない部分において使用者の裁量でいいのだが、それってどうですかね!!という与え方もみかけます。

休憩に関しては雇用されている労働者でもいろんな考え方があります。

忙しいときにきっちり規定通りの休憩を取ったといって怒る人とかも…

テレワークだみなしだ裁量だ高度プロフェッショナルだと「多様な」働き方が出てくると今後休憩の取り方も変わってくると思います。

休憩時間30分にならないかなぁ


昨夜は雲がなく、宵の口にのぼったまんまるい月が家の前からくっきりと見えた。一昨夜のスーパームーンは生憎の曇り空で、時々雲の切れ間に顔を出す程度であった。しかし、澄み切った夜空に輝く月よりもむしろ風情があってよかったように思う。

丹下左膳に出てくる五百石の悪旗本・鈴川源十郎は月見をしない。

下女のさよばあさんが「殿、いい月でございますねえ」と戸を開けても「俺は月は嫌いだ」と、にべもなくはねつける。理由を聞かれ、「なぜでも嫌いだ。月を見るともの思う。ものを思えば心が苦しくなる。そのせいかもしれん」と答える。さよばあさんにすれば悪党であっても仕えている主人である。「お別れになった奥様のことでも思い出して、おさびしくなるのでございましょうよ」と言う。鈴源が月を見たくないのは、己の悪事を照らすからであると思われるが…悪党も人間であるということか。ものを思わぬ善人が多い世の中だが…

古代より月を見て人はいろんなことを思ったのだろう。月を詠んだ歌や詩は多い。月はどの国にも控えめな光を落とすが、とりわけ東洋の人間になにかを考えさせるようだ。

明け方、西の空に沈みゆく梅干しや提灯のように赤い月や、夕方に西のほうにはかなげに漂う三日月、真昼にとけかかった飴のように浮かんでいる白く少し欠けた月、真夜中にカーテンを閉め忘れた窓から煌々と部屋の中を照らす月…

月にはいろんな姿があり、人間の詩心を刺激するのかもしれない。

私は薄雲のかかった月が好きである。月の光が雲によってひろく拡散するさまがなにか希望を思わせる。

勤務時間を1~2時間前倒しにして働くことを「ゆう活」といい、夕方を楽しく活かす働き方という意味だそうです。国家公務員の多くがこの制度を活用したとか。

自分には関係ないことなので横目で見てただけですが、5時から男がちょっと早くなったやつか?無責任男の復活か?とちょっと可笑しくもありました。

子どものいる女性でゆう活ができる人は少ないと思います。でも旦那がゆう活で朝いなくて夕方保育園や学童の送迎をしてくれて食事の準備や後片付け、こどもの入浴や寝かしつけといったことをしてくれるのはありがたいです。朝早くに出かけてゆう活で趣味を楽しみ帰宅は午前様がラクでいい、仕事してくれりゃもっといい、という奥さんもいるかもしれません。

神戸大学教授の大内信伸哉さんが、『ビジネスガイド』9月号のなかで、朝方勤務のゆう活をすごく推奨していました。伊藤忠の導入例を挙げ、早朝勤務にインセンティブとして割増賃金を支払うなど斬新的なアイデアであると絶賛しています。

朝の時間帯を家事や育児にあてている人もいるのでゆう活にも問題点があるとしていますが、なんか小さな問題みたいに言われています…

保育園や幼稚園、小学校はそれほど多様ではありません。バラエティに富んでいません。むしろ硬直的です。子どもがいる家庭では、誰かが朝を子どもの世話にあてなければいけません。

伊藤忠の早朝割増し賃金は斬新かもしれませんが、独身の人や育児や介護をしない人にとってはチャンスですが、朝に会社に行けない人にとっては不公平です。

私は夕方を楽しむゆう活よりも、朝の出勤前に楽しむ朝活のほうが合っているな。人それぞれなので、いろんな働き方が可能になるのは嬉しいことですが、最近の流行りである「多様性」を錦の御旗にして押し付けられるのはいやです。「多様性」もかなり押し付けられていますが…押し付けられないと、風見鶏が身に付いた人間には安心できないのかもしれない…

憲法学者の木村草太さんが、何がなんでも憲法を変えたい人たちを、江戸時代の作家上田秋成の作品『白峰』で説明しています。

物語の最初に、西行法師とかつて仕えたことのある怨霊と化した崇徳上皇との対決が描かれています。1200年ごろ、崇徳上皇は後白河天皇を排し、自らの息子を帝位に就けようとしたが失敗に終わり、謀反人として讃岐に流刑されそこで亡くなります。(保元の乱)西行法師が墓を訪れ、うら寂しい様子に涙しながら歌を詠むと、崇徳上皇の霊から返歌がありました。崇徳上皇は自分の行いをいろいろと例を挙げてながながと正当化しますが、西行法師から私怨に基づく浅ましい復讐であったと論破され、論戦は西行法師の勝利に終わります。

崇徳上皇は長い溜息をついた後

今事を正して罪をとふ、ことわりなきにあらず。されどいかにせん。
(論理の観点から私の罪を問うことは理にかなったことで、間違ったものではない。しかし、私の気持ちは如何にすればよいのか)と言い、流刑後の散々な扱いを告白します。

木村さんは、押し付け憲法論は崇徳上皇側の論理に似ていると言います。

大日本帝国憲法に愛着を持つ者からすれば、どんなに「ことわり」があっても、口惜しい気持ちや怨念は収まらない。押し付け憲法論を根拠に改憲を訴える人に「先ほどから聞いていると、憲法の制定過程しか問題を指摘できないようですが、内容に問題はないということですね?」と聞くと黙る。黙るが納得しない。まさに「ことわりなきにあらず。されどいかにせん」という態度である。
そうです。

しょうもないやつらだなぁ、という態度を取られ続けてきたようですが、看過できない状況になってしまったようです。

「ことわりなきにあらず。されどいかにせん。」の気持ちならよくわかります。自分がいつもそうですから。家庭内に不和を起こしているのは私のこの態度ですから。うじうじとよくないことはわかりきっており、6歳の娘にまで諭されるくらいです。なのに改めることができないのです…

木村さんもこの「されどいかにせん」が難しい問いであると言っています。

崇徳上皇は「されどいかにせん」のセリフの後、大魔王となった本性を現し、凄まじい姿を見せます。西行法師はそれでも毅然として過ちを正し、「よしや君 昔の玉の床とても かからんのちは 何にかはせん」(立派な王座にいたあなただったのに、このような醜態をさらしてそれが何のためになると言うのでしょう。)と優しく諭します。

「されどいかにせん」の気持ちは、自分が乗り越えなくてはいけないものだということです。

西行法師は崇徳上皇を尊敬したうえで厳しい態度を取っています。

首相の地位にまである人を厳しくも温かく諭せる人はいないのか。

公明党は下駄の雪の汚名に甘んじるのではなく、仏法対話で法の道を説くことが必要なのではないか。下駄の雪を支持するほど人はいつまでもお人よしでもなければ愚かでもないですよ。

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