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夏冬のボーナスをはじめ、業種別・年齢別等の給与について発表されるたびに思っていました。

世間の人って、いっぱい給料をもらってるんだなぁ。

私がもらっていた給料はいつもそれらをはるかに下回っていたからです。

メディアが報じる賃金調査結果の詳細を知ることもなく、自分の月々の手取りとボーナスを思い浮かべながら漠然と感じていたのです。

雇用される労働者は自分が手にする給与の位置というものをどの程度わかっているものなのだろうか。

社会保険労務士:三村正夫さんの『サッと作れる小規模企業の賃金制度』を読み、はじめて賃金の決め方や多寡について考えました。

名の通った企業の賃金規定などを見ると、手当の多さやグレードの多さに頭が痛くなります。社会福祉法人などに多い公務員の俸給を真似た級と号の組み合わせにもうんざりきます。私はかつて社会福祉法人に勤務していましたが、専門学校や大学での専門課程を修了していないものはどんなにがばっても給与に反映されず(資格は手当にしかならない)、多くの人が資格を取って離職していきました。基本給ってなんだろう?とばくぜ~んと感じました。

三村さんは、10人未満の小規模企業では、賃金の質の部分である賃金の決め方・賃金表の作成にあまり時間をかけるべきではない。支払い方法や給与明細の工夫、ソフトはどうするかといった運用いわゆる量の部分にその数倍の時間をかけるべし。給与そのものは世間相場を重視したものでよい。と言います。

おもしろいことに多くの労働者が自分の給与は世間相場よりも低いと思っているそうです。

大企業と中小零細の差、都会と地方の差、年齢や経験の差を考慮に入れず、「平均」をみるのですから当然なのですが…

三村さんによれば、アメリカでは、①社員が担当する職務が会社にとってどれだけ価値があるか②社員個人の業績はどうか③世間相場はどうか、ということを勘案して給与を決めるということです。

「職務」や「個人の業績」での評価が難しいので、せめて世間相場で決めるということですね。

世間相場というのは考えてみれば当たり前というか、妥当なところだと思うのですが、社長さんたちはどうやって決めているのでしょうか。ハローワークやフリーの求人誌の同業者のものをいくつか眺めて適当に決めていることが多いのではないかと思うのですが…

そういう決め方だとその時の景気で決まり、それがその後もずーっと給与に響き、やってられるかという気分を引き起こし離職につながることも多いかも…
 
三村さんは『サッと作れる零細企業の就業規則』という本も出されています。その他年金の本などもあります。私は一度ファイナンシャルプアランナーの年金セミナーを受講したことがありますが、ユニークな方でした。
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世の中は誤解だらけです。人間のいるところには誤解が生じるものと諦めていました。でもそういう「仕方がない」というような物事を研究している人もいるのですね。

東京大学先端科学技術センター教授の西成活裕さんが「誤解学」なるものを研究しています。西成さんは「渋滞学」「無駄学」なるものも研究しており、本を出しています。「渋滞学」「無駄学」を通して、渋滞も無駄もその背景には「渋滞を避けるためには車間距離を空けないで走る方がいい」「ゆとりをとることは貴重な時間を無駄に使っている」という「誤解」があることを感じ、「誤解学」の研究に至ったということです。

誤解が生じる原因が自分にあった場合、その多くは「省略」が原因だそうです。信頼関係がある相手であれば、ある程度省略して話をしても相手が行間を読んでくれるので誤解は生じないが、お互いの信頼や理解がない状態で省略すると誤解が生まれる。

夫や娘との間に常に誤解が生じるのはそのせいか…ま~たそんな言い訳ばっかりして、逃げようとしてるな、と疑心暗鬼なのに省略するからダメなのか…

相手に原因がある場合は「先入観」が誤解の原因になっていることが多いそうです。伝え手の人物像やメッセージの内容について」、受け手が持つ何かしらの事前情報が、先入観あるいは偏見となって伝え手のメッセージを歪めて受け取ってしまう。

誤解のほとんどが「省略」と「先入観」が掛け合わさって生じている。なので、コミュニケーションの際にそのことを意識すれば誤解を避ける振る舞いができるのでは、ということです。

言うは易しですが…でもでも、今までは考えてもみなかったことなのでいいヒントにはなってます。

西成さんは、誤解についてちょっと意外なことを言っています。

誤解とは人間社会に必要なメカニズムであり必要悪である。人と人との間にある誤解のストレスは人が行動する原動力の源泉の一つである。「本当の自分はこうだ」「本当はこうすればいいのに」と言った気持ちの根底に誤解があり、その誤解のストレスが文学や芸術、政治経済などさまざまな社会活動の原動力になっている。

誤解は悩みの材料ではなく、プラスな存在。

究極の前向き志向です!!

夫や娘からの故なき(ウソ)誤解を解くため今日から前向きにがんばろう。

介護の仕事をしていたころ、夜勤のおむつ交換中になると必ずと言っていいほど「旅に出たい!」という思いに駆られた。夕方16時から(多くの職員が15時半(なかには15時の人もいた)には現場に出て働いていた)翌朝9時までの拘束で休憩が30分30分の1時間(仮眠なんてしませんよ。寝る場所も時間もないですから)。1人で30人の入所者を「監視」して、おむつ交換や食事介助などの「世話」をするわけですから肉体的にも精神的にもハードでタイトでツライわけです。現実逃避したくなるのだと思います。

働き始めたころは、介護保険の1回目の改正前で、まだ全体的に余裕がありました。夜勤明けのあと2日間の休みもあり、明けの日と合わせて3日なので旅行に行ったりなんかしてました。でも労働条件が急激に悪化し、元々1時間半あった夜勤時の休憩が1時間になり、休日も減ったあたりから旅行どころではなくなりました。

介護の質ということなら、労働条件が悪化する前から「全然なってない」「ど素人の自己満足介護」が幅を利かせていましたが、労働条件の悪化で「やってられるか」「少しでも裏をかいてラクしてやる」という態度がそこに加えられました。

法人内の異動で配属となったところは、現実逃避をしないと続けられないような有様でした。脱走兵よろしく次々と逃げ出す職員と勤務年数の長い職員の差が大きかったです。

一人で過ごす孤独でハードな夜勤は(30人のおじいさんおばあさんと一緒なのに一人というのもなんですが)旅に出る夢でなんとか1年間持ちました。

やめて数日後には青春18きっぷの旅に出ました。

でもその後ぱったり旅には出ていません。

家庭やお金の事情などもあるのですが、「旅に出たい!」という衝動はなく、気づけば「どこも行ってないな~」というかんじです。非日常というものを求める気持ちそのものがなくなっています。

人を物のように扱わねばならない介護の仕事には戻りたくないと思いつつ、今の生活のほうがはるかにマシであると思いつつ、この満たされない気持ちはどういうことなのだろうか。

何かを手に入れたいと強く願いながら、手に入ったあと空虚な心に苦しむという話をよく聞く。

「旅に出たい!」という気持ちがなくなったことは何を意味するのだろうか。

子どもを言い訳にしていたけど、もう来年は小学生である。そろそろ母子だけの関係ではなくなってきている。

もっと広い世界に目を向けないといけない時期なのかもしれない。




就業規則は法的な効力があるということをふまえてなのかどうか知りませんが、法律を真似た作りになっていることが多いです。

第何条というふうになっていて、その前あたりにカッコ書きで(服務規律)とかタイトルというか、その条項がなにについてのものなのかが書かれています。いくつか項があるときは、法律同様に1項目は数字がふってありません。でもさらに細かい号はちゃんと①があります。

接続詞なんぞも「若しくは」「並びに」「但し」などかたい言葉・漢字で書かれています。

会社の法律みたいなもんだから法律仕様でいいのだという感覚なのかもしれません。

けれども、従業員が読んでも何が書かれているのかよくわからなかったり、難しそう・面倒くさそううと思われて開いた瞬間閉じられたのでは何のための就業規則かわかりません。

それが狙いなのか…

でも服務規律や制裁はちゃんと読んで理解してもらったほうがいいと思うが…

法律は憲法などもそうですが、読みにく・わかりにくいだけじゃなく、どんなに目を凝らしていっしょうけんめい読んでみても理解できないことが多いです。というか、法律の条文とはそういうものだと思います。読み方にルールがあるのでそのルールを知らないと間違って解釈してしまいます。そしてなによりも、その法律の背景がわからないと理解できないのです。通達なんかもそうです。何らかの疑いや問題があるから官が一応の解答を示しているのです。(国はこのように解釈してるがいかがか、といったかんじですか?)憲法だって国際法を知らないで議論はできないです。

会社の就業規則だって同じです。

社労士にとってはメシの種の就業規則作りですが、従業員が読んだらどうかという視点がもう少しあったらと思います。

会社を守るものだから従業員にとってという視点はなくてよい?

ふーん、弁護士みたい。プチ弁護士、略してプチ弁。

就業規則をわざと読ませないようにしてる社長は別ですが、そうではないのに読んでもらえないという会社も多いと思います。その場合、やはり周知の方法やPRを工夫すると同時に、就業規則そのものを読みやすくしないといけないと思います。

「妄りに」これは「みだりに」と読みます。前後の関係でなんとかわかりましたが、普通こんな漢字を使いません。就業規則はこんなののオンパレードです。

社労士がコンサルタントをするときは平易なことばでわかりやすくを基本にしないといけないと思います。難しい言葉を使わないからって軽んじられることはないはずですが…

社長が自分で作る場合も、そこで社長の威厳を誇示する必要はないと思います。さすが社長、厳かな立派な規則を作ったなぁと、従業員は思ってくれないはず…






就業規則を作成・変更した場合、労働者代表の意見を添えて監督署に届け出なければならない。

意見書にはなんかかんか書くのだろうが、「特になし」とか「異議なし」とか書かれていることが多いのではないか。

私は30年近く雇用される労働者であったが、代表者を選んだのはいっぺんだけである。かつてあるユニオンに聞いたところ、「組合もない中小零細企業じゃ、社長が事務かなんかの人を適当に選んでハンコもらってるのが実情ですよ」と教えてくれた。

届出書には選出方式を書く欄があるが、挙手とか話し合いとか適当に書かれているのだろう。形骸化が著しいというよりも、もともとそんなもんだったのだろうと思う。

仮に選出されたとしても、選ぶ方も選ばれた方もなんかよくわからないがとりあえず丸つけとくか、とりあえず代表ってことでってかんじであろう。(いっぺんだけ経験した選出がそうだった)

就業規則の内容が気に入ろうが気にくわなかろうが、それで受け取りを役所に拒否されるというわけではないので、とにかく意見が書かれていればよいのである。

仮に社長から意見を頼むと言われたところで、なんと書いていいかもわからず、中身もろくに読まないで「特になにもなければ特になしとかでいいよ」とか教えてもらってその通りに書くのだろうか。

御用組合だろうがなんだろうが、集団組織であればとりあえず「更なる改善を求める」とか「更なる話し合いが必要」とか、かっこうだけでもつけるが、個人だと特になししか書けない。

これも形骸化が著しいというよりも、そもそもそんなもんなのだろう。

会社が勝手に作れて、はい意見どうぞっ、て言われてもね…そいでもって、就業規則に記載されているかどうかが紛争ではおおいに勝敗を決するというのだから、労務コンサルタントなんぞにとってはメシの種になってるわけですね。

ところで、意見書の「特になし」は意見は別にないよ~と判断されるが、「異議なし」は賛成と判断されてしまう。違いをはっきりさせないまま「特になし」と「異議なし」が使われているのではないかな。「異議を申し立てません」って、誓約書ですか!って内容を書かせてるとこもあるんじゃないでしょか。

意見ナシ・異議ナシの就業規則が違反堂々で社労士のハンコが押してあったりすることありますので…

服務規律とそれに伴う制裁が主な内容であった戦前の就業規則が、労働条件を加えて今もなお労働者を縛るものとしてまかり通ってるということです。

性に合ってるのかも。

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