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ブラック企業という言葉がすっかり定着した。「ブラックバイト」もかなり普及してきた。

黒=悪、白=善は古典的なもので、それを英語にしただけなのだが、ブラックと企業をむすびつけたところがとても斬新なかんじがする。曖昧・微妙なところはグレーとするのは常套的で、グレーゾーン金利などというように使われていた。

単純な分け方である。ブラックかホワイトかグレーか。本来複雑微妙なものであるはずのグレーまでもが二者択一の仲間入りである。二分法が三分法になっただけである。

NPO法人ポッセ代表理事の紺野晴貴によって広まり定着した言葉であるが、若者を使い捨てる企業の実態や多くの若者が自己責任のもと我慢して泣き寝入りしている現状を広く世間に知らしめた点は大きく評価しなければならない。

だが、これほど硬直した構図を生み出すことは予想しただろうか。

ブラック企業の定義はない。強いて挙げれば労基法違反など強行法規を守っていないということか。パワハラ、セクハラの多いところもか?

だが、こんなことを挙げていたらきりがない。少なくとも私はブラックなところでの勤務経験しかない…

甲か乙か、上か下か、右か左か、善か悪か、イエスかノーか、生か死か、本来的な問題からどうでもいいような問題まで二者択一は多くの人を魅了する。

人間を含め、自然界は複雑な事象が入り組んでおり、すべてが連続している。二分法とはまったく異なる世界である。

ブラック企業という言葉の普及により、企業や働く人の実態が明らかにされた一方、ブラックかホワイトかという二分法が蔓延してしまい、青い鳥を探す人が増えてしまったのではないかと思う。

ブラックの中に見るホワイト性、ホワイトの中に見るブラック性など、哲学的・文学的視点が欠如すると、どのようなムーブメントも終焉してしまう。

ブラック企業?なに甘えたこと言ってんの。大人になりなさいよ、という時代がこなけりゃいいけど…
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実態は派遣であるのに、請負のように装うことを偽装請負という。なぜ偽装せねばならないのか?労働者と派遣元・派遣先、労働者と請負会社、これらの関係はどう違うのか。

禁止されている労働者供給とどう関わってくるのか?

戦前横行していた第三者によるピンハネを防ぐため、禁止されていたのだが、派遣は労働者供給とは違うということで業種限定で認められることとなった。

業種は拡大され、なんでもオッケーとなった。この派遣を装うとはどういうことなのか?

派遣ではない。と言うとき、「指揮命令はこちらにあります。」という主張がなされる。「時間は先方の都合で変わりますが」と付け足される。

指揮命令のもっともたるものは時間ではないのか?

雇用と働く時間を切り離すことは不可能である。

監督管理の地位にある者など、一部の例外はあるが、あくまでも例外だ。拡大解釈が不可能になったからといって、高度プロフェッショナルなどと、新しい画期的な制度であるかのように装うのは汚い。

派遣か請負かというときもやはり時間が要となるのではないか
特別養護老人ホームに勤務していたころ、リスク管理についてやかましく言われていた。リスク委員会というものがあり(他にも排泄委員会や行事委員会などがある)月に一度会議を行い、あれこれと話し合っていた。1時間分は時間外手当が出るが、ダラダラとしゃべり続け、終わろうとしない「熱心な」職員がいて、超過分は出ないのですごく苦痛だった。「熱心な」人は一旦、閉会となってもまだしゃべり続け、介護部長や看護師などはさりげなくうまく帰っていたが、うまく帰れないで、えんえんと話を聞かされ続けている人は気の毒でかわいそうでならなかった。私はある時「もう残らない」と決意して、時間になったら帰ることに決めた。

働く側から膨大な時間を搾取しておきながら、その施設ではリスク管理はまったくうまくいっていなかった。


多くの利用者が転落・転倒して骨折し、入院し(病院から帰ってこない人もいた)誤嚥性肺炎を起こし、身体中あざだらけになり、そのたびにかかわった介護職が糾弾され、責任逃れ・責任転嫁、虚偽報告、同僚を陥れるといったことが横行した。

沈没船といっしょに沈むのは真っ平ごめんだったので逃げ出した。いっしょにがんばってきた仲間には悪いと思ったが、他人を慮る余裕などなかった。

残った仲間からか聞くその後の施設のありさまは地獄絵のようだった。

だが、それでもその施設は拡張を続けている。

そのときそのときの施策に合わせてユニットタイプを作ったり、小規模タイプを作ったりして生き残っている。

いずれ沈むのは間違いないが、しかし道連れが多すぎる。あまりにも多くの犠牲が伴いすぎる。

リスク管理と称して利用者や職員を監視して締め付けても事故は多発し、言い訳・もみ消しに終われている施設だが、社会資源として重宝されている。

そしてこのような施設はけっして例外的ではないというのが最大の問題点である。

「加害者になるな。犠牲者になるな。そしてなによりも傍観者になるな。」

ホロコーストの研究者たちが訴え続けていることです。

一部の人たちが戦争を始め、多くの人たちが犠牲になる。そのとおりなのだが、一部の人たちの非道な行為を許しているのは多くの、後に犠牲となる人たちである。

人権運動家のキング博士がもっとも恐れたのは、自分の考えに反対する差別主義者の過激な抵抗ではなく、善意の人々の沈黙であったといいます。

戦争であれ、ほかのどのような悪徳であれ、傍観者となることでその悪事に協力した人たちが多くいるからこそ、遂行が可能となるのである。

善と悪、正と邪は容易に判断がつかないことがある。邪悪はしばしば蜜のように甘く、ときに聖者の衣をまとい、正義の剣をふりかざし、清廉な佇まいをしている。

どうしたら真実の眼を持つことができるのか。

自分が何かをするとき、しないとき、無意識に「理由」をつけている。

良心に反することをするのに「理由」なしでできるほど多くの人は芯からの悪人ではない。

むしろ「よかれ」と思わないことにはできない。

なぜ、自分の行いは「よいこと」であるといえるのか。

まだ7月の中ごろだというのに、お盆過ぎのような気分になっているのはどうしたことだろうか。夏の終わりの気配を感じているのに、まだ長い夏を過ごさなければならないと思うとくたびれる。

休日のショッピングセンターフードコートは家族連れで賑わっている。ケンチキとすがきやの他は麺類とどんぶりの店しかない、持ち込み三昧の広いスペースだが、みな家族そろってうどんだかラーメンだかをすすっている。弁当をひろげているのは私たち親子ぐらいであった。

6歳の娘はまわりの子どもたちが麺類を食べているのをみて、落ち着かない様子であった。きょろきょろしてちっともお弁当がすすまない。しまいには、「おうどん食べたい」「ラーメン食べたい」と言い出し、理屈に合わないが「あんましお腹すいてない…」としょんぼりしだした。

私は汁物がなく、なんか物足りない気がしていたので、小さな麺類を娘とシェアすることにした。しかし、小さなサイズがなく、一番安いすがきやのラーメンでも290円である。しかも味噌汁代わりには量も多い。すぐ横の食品売り場でカップ麺を買うことを思いつく。コンビニと違い小さいサイズはなかったが、80円と安いのでPBブランドのを買った。

水をいれて備え付けのレンジで加熱した。火花が散った。マズイ。しかし、ここであきらめるわけにはいかない。蓋の裏のアルミホイルが原因なのでめくれないよう押さえつけてなんとか熱湯近い温度まで加熱して3分待った。

生まれて初めてカップ麺を口にする娘は不安そうな顔をしていたが、ジャンクな味は大好きなので、一口食べて「おいしいね。これおうどん?ラーメン?」と嬉しそうにすすっていた。

収入が激減してはや1年半。もはやお金がないことをツライとか惨めであるとかはまったく思わなくなった。カネなしの生活はゲーム感覚と化した。しかし、これは物が有り余っているからだ。お金と交換しないと手に入らな物やサービスもあるが、そうでないものも多い。ここまで収入が激減するまでは、お金がないと物が手に入らないと思っていたし、お金は雇用され時間を売ることでしか手に入らないと思っていた。しかし、物は窒息しそうなほどこの世にあふれかえっている。それらを手に入れるために時間を売るのは理屈には合っているが、惜しい気がしてならない。

ところで、収入がほんの少しでも増えると、「カネを使いたい」「物を買いたい」という気持ちになるものです。なにせ、物やサービスはあふれかえってますから。実は買いたいものも欲しいものも市場にはないのですが、ほしい・買いたいと思わせるしかけが巧妙なので、ついつい買ってしまうのです。

他人の財布なのに、家族でどんぶりやらうどんやらを食べたらいくらするやろ…と、気になった休日でした。

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