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知らなければ損をする。闘わなければバカをみる。
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「加害者になるな。犠牲者になるな。そしてなによりも傍観者になるな。」
ホロコーストの研究者たちが訴え続けていることです。
一部の人たちが戦争を始め、多くの人たちが犠牲になる。そのとおりなのだが、一部の人たちの非道な行為を許しているのは多くの、後に犠牲となる人たちである。
人権運動家のキング博士がもっとも恐れたのは、自分の考えに反対する差別主義者の過激な抵抗ではなく、善意の人々の沈黙であったといいます。
戦争であれ、ほかのどのような悪徳であれ、傍観者となることでその悪事に協力した人たちが多くいるからこそ、遂行が可能となるのである。
善と悪、正と邪は容易に判断がつかないことがある。邪悪はしばしば蜜のように甘く、ときに聖者の衣をまとい、正義の剣をふりかざし、清廉な佇まいをしている。
どうしたら真実の眼を持つことができるのか。
自分が何かをするとき、しないとき、無意識に「理由」をつけている。
良心に反することをするのに「理由」なしでできるほど多くの人は芯からの悪人ではない。
むしろ「よかれ」と思わないことにはできない。
なぜ、自分の行いは「よいこと」であるといえるのか。
まだ7月の中ごろだというのに、お盆過ぎのような気分になっているのはどうしたことだろうか。夏の終わりの気配を感じているのに、まだ長い夏を過ごさなければならないと思うとくたびれる。
休日のショッピングセンターフードコートは家族連れで賑わっている。ケンチキとすがきやの他は麺類とどんぶりの店しかない、持ち込み三昧の広いスペースだが、みな家族そろってうどんだかラーメンだかをすすっている。弁当をひろげているのは私たち親子ぐらいであった。
6歳の娘はまわりの子どもたちが麺類を食べているのをみて、落ち着かない様子であった。きょろきょろしてちっともお弁当がすすまない。しまいには、「おうどん食べたい」「ラーメン食べたい」と言い出し、理屈に合わないが「あんましお腹すいてない…」としょんぼりしだした。
私は汁物がなく、なんか物足りない気がしていたので、小さな麺類を娘とシェアすることにした。しかし、小さなサイズがなく、一番安いすがきやのラーメンでも290円である。しかも味噌汁代わりには量も多い。すぐ横の食品売り場でカップ麺を買うことを思いつく。コンビニと違い小さいサイズはなかったが、80円と安いのでPBブランドのを買った。
水をいれて備え付けのレンジで加熱した。火花が散った。マズイ。しかし、ここであきらめるわけにはいかない。蓋の裏のアルミホイルが原因なのでめくれないよう押さえつけてなんとか熱湯近い温度まで加熱して3分待った。
生まれて初めてカップ麺を口にする娘は不安そうな顔をしていたが、ジャンクな味は大好きなので、一口食べて「おいしいね。これおうどん?ラーメン?」と嬉しそうにすすっていた。
収入が激減してはや1年半。もはやお金がないことをツライとか惨めであるとかはまったく思わなくなった。カネなしの生活はゲーム感覚と化した。しかし、これは物が有り余っているからだ。お金と交換しないと手に入らな物やサービスもあるが、そうでないものも多い。ここまで収入が激減するまでは、お金がないと物が手に入らないと思っていたし、お金は雇用され時間を売ることでしか手に入らないと思っていた。しかし、物は窒息しそうなほどこの世にあふれかえっている。それらを手に入れるために時間を売るのは理屈には合っているが、惜しい気がしてならない。
ところで、収入がほんの少しでも増えると、「カネを使いたい」「物を買いたい」という気持ちになるものです。なにせ、物やサービスはあふれかえってますから。実は買いたいものも欲しいものも市場にはないのですが、ほしい・買いたいと思わせるしかけが巧妙なので、ついつい買ってしまうのです。
他人の財布なのに、家族でどんぶりやらうどんやらを食べたらいくらするやろ…と、気になった休日でした。