[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
知らなければ損をする。闘わなければバカをみる。
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「罪を憎んで人を憎まず」ということわざがある。
人が罪を犯す理由には、そのような悪い結果になってしまうまでに、それなりの事情があり、人そのものを憎むのではなく、その罪に至るまでの心の中で生まれていった悪い思いを憎むべき、ということです。孔子の言葉だそうです。
わかっちゃいるけど、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いで、人を憎まずどころかその憎い人が使った物や好きな物・人までが憎たらしくなってしまうものです。
人事考課が難しいのも同じようなことかなと思います。
人物ではなく、職務を評価する。
言うは易く行うは難しです。
そもそも「職務」というものが労働契約上定まっていないことが多く、定まってはいてもそれほど厳格ではなくゆるかったりするので、「職務」そのものを評価するという発想自体がないわけです。そこには、どうしても「人物」評価が入り込んでしまいます。というか、そっちが主体だったりします。そうなると、当然ながら評価は恣意的、つまり「でたらめ」「好き勝手」「てんでばらばら」になってしまいます。サービス業が労働の主流を占め、製造業までがサービス業的であることが求められている現在、特に対人援助サービス業などは、職務評価が難しいのではないかと思います。それぞれが自分の「思い」をダイレクトに評価基準としてしまいがちです。
その一方でチームワーク、コミュニケーションというものが声高に叫ばれ介護・保育系セミナーなどのテーマとして人気です。数時間~数十時間のセミナーの受講でチームワークやコミュニケーション能力がどうこうなるわけではないのですが、労使共に飛びつきたくなるテーマのようです。
曖昧でふわふわした「なんとなくいいかんじ」がウケているのかもしれません。そういうのも時にはいいと思います。ただ、そっちに重点を置きすぎるのはいけません。
時間がかかっても、頓挫しそうになっても、着実に「職務」に向き合い、制度を構築していくしかないと思います。
人を憎まずって、ほんと難しいです!
育児休業の間育児と家事に専念するだけではなく、キャリアアップを目指し、講座などで勉強する女性が目立ってきた。
新聞の切り抜きを整理していたら先月7月の読売新聞の記事が目に留まった。女性記者が書いた育休期間中に積極的にキャリアップに向けて学ぶ女性についての記事であるが、「育児と家事に専念」という言葉に違和感をもった。
育休だから会社で仕事はしていないだろうが、「育児と家事に専念」とはどういう意味なのだろうか。
記事の中では、「短時間で成果が出せるスキルを身に付けよう」と、ビジネススクール・ワーキングママ大学(時間に制約があるなかでも力を発揮し、リーダーとなれる人材になるための方法を教える)に通う女性や、社員向けのオンライン講座(ビジネススキルやご語学を無料で受けられる)を受ける女性が紹介されている。
ビジネススクール・ワーキングママ大学は大手企業の幹部や経営コンサルタントなどが講師を務め、1コースは3か月で全6回、98,000円から。託児は別料金。働く母親たちが企画し、昨年開講したそうだ。けっこうなことである。
このようなことをしていない育休中の女性を「家事と育児に専念」しているというのだろうか?つまり、子守とちょこっと家のことをしている他はテレビを見たりメールなどをして時間をつぶしているだけと言っているのだろうか?
だって、家事と育児に専念したところで、時間が余るのは誰だってわかりきっていることだし。
なんか、いつまでも元気を強要されて筋トレやリハビリを奨励されている老人と変わんないな。しかも、家事や草取りなどは「みえない」し「カネがかかってない」ので、評価されないし…
育休中の女性が対象の「育休プチMBA勉強会」を主宰する大学の先生は、育休中に学べる環境があれば、子どもを持ってもキャリアを諦めない女性が増えるはず、と期待しています。
夫に家事分担を促す講座もあるそうです。ありがたくもおめでたいことです。
根性がねじ曲がっているのが原因に違いないが、このての話に私はうんざりです。
自己啓発だのキャリアアップだの効率化だのみえる化だのには心底うんざりきます。
オンライン講座は音声を消して字幕を飛ばし読みするのが最も効率的で、10万の講座は受講した人から愚痴を聞くのが最も効率的です。
ぐうたらしている若いもんに対し、一生懸命勉強したらいい仕事に就けて、そしたらのんびり悠々自適の老後が送れて…と叱咤激励したら、だから今こうしてのんびりしてるじゃないか、と反論する落語がありましたが、自己啓発してキャリアアップして、いい給料もらって、そいで何?って思います。
きのうのんびりしていて、気が付いたら保育園のお迎えの時間で、道草食って暗くなり、まだ「あそぼ~」とせがまれ、時間が消えたことに腹が立っているので八つ当たりしました。
5分の遅刻に対して30分の賃金カット。
なぜこれが可能なのか。なぜ賃金全額払いに反しないのか。
制裁として就業規則に規程するなら、制限内(1回の制裁につき日給の半分を超えないとか)で可能ということだ。
では、制裁でなかったらどうなのか。例えば給与計算を15分、30分単位でしており、その関係上5分10分の遅刻が15分30分の賃金カットとなるとしたら?これは違法なのだろうか?15分や30分の遅刻は大目に見てカットなしなら問題はないだろうが…もし違法なら、違法にしないためにわざわざ制裁として規程するのか?
制裁ならば制限内で可能と言うが、(なぜ会社による制裁が可能なのかはわからない。だが、認められているからこそ制限がつくのである)賠償予定の禁止に反しないのだろうか。これも制裁であれば、債務不履行の際の違約金とは異なり可能なのか?
9時から就業するのが約束であれば、遅刻は債務の不完全不履行である。禁じられていなければ違約金を支払わせればいいだろう。不注意による遅刻やなんらかの事情があっての遅刻であっても同じだ。だが、それだと「制裁」はできない。(対等な立場で契約を締結しておきながら相手に制裁を科すというのもおかしなものだが)。一方、不注意による遅刻であってもたび重なったり、あるいは無断ということであれば「制裁」というのも必要かもしれない。
だが、この異なる事情による遅刻(早退・欠勤)がいっしょくたにされ実際の不労時間よりも多く賃金カットされているのは問題ではないだろうか。
労働契約という個人的な事柄に就業規則という集団的なものが加わると、混乱してしまいどう整理していいのかわからなくなる。労働契約法はそこにさらに拍車をかけているようで、ますます混乱する。
就業規則は労働契約に優先する。しかし、就業規則よりも有利な条件の労働契約であれば別。
就業規則≒労働契約。なんぞげに思ってますが、なぜこれがまかりとおるのか、私は説明できないです。実のところちっともわからないのです。
なんで就業規則が労働契約の内容となるのだろう?