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介護の情報誌『ブリコラージュ』のバックナンバーを読み返していたら、デイサービスに勤務する20代の男性介護士数人(PT/OTも)による座談会が載っていました。

同窓会などで介護の仕事をしていると言うと、「あり得ない」「信じられない」「自分にはできない」というリアクションを取られ、「おまえ偉いな」とくる。イラッとくる。やかましいわって思う。めっちゃ腹立つ。

70歳になる叔父から「下の世話もするの?」と聞かれ、「お前だって何年後かだろ」と言いたいぐらいイラッとした。母親にそのことを話すと「きっとそれは偉いねという意味だと思うよ。もうすぐ自分が介護を受ける年だし」と言われた。母親より上の人に「偉いね、若いのに」と言われると「とんでもないですよ、ありがとうございます」と思えるけど、友達に「おまえ偉いな」みたいに言われるとイラッとくる。まったく心の入っていない褒め言葉。「俺にはできねえよ」と言い、憐みの視線をおくる。

働き口がなくて仕方なく介護業界に入った中高年ではない。介護やリハビリの専門学校を出て自ら小規模な施設を選んで、定時という概念もない中で、じいちゃんばあちゃんに喜んでもらいたいと思って苦闘しつつ働いている若者である。

座談会に出席しているある介護士は、介護の学校へ行くと決めたとき、父親から「介護なんてバカみたいな仕事をなんでするんだ。そんなとこ行くんだったら金ださねぇ」「ストレスがたまってろくな金にもならないし、そんなところに行くもんじゃない」とまで言われている。

介護の仕事に対しては「必要な重要な仕事」「やりがいのある尊い仕事」といった、建前みえみえきれいごと三昧の評価と、キツイ・キタナイ・給料安い、ウンコ・シッコ・寝ない・忙しいといった、身もふたもない評価というか酷評があるが、評価者はこのような評価を受ける実際の働きての思いなど想像すらしないのだろう。

特養ホームに勤務していたころ、ある家族から「ワーカーさんたちほんと偉いわ。真似できないわ」と言われ、複雑な思いだった。素直に褒め言葉として受け止めることができなかった。その家族の方は心にもないお世辞を言ったのではないと思う。その家族さん自身さえ気づいていない潜在的な「給料安いのにようやるわ」「他人の下の世話がようできるわ」という侮りというか半ばあきれた感想みたいなものを感じとったのだと思う。

職業を聞かれて「偉いね」と言われるときの気持ちって…でも本音が出てます。


専門職といいつつ、本当に専門性があるのか(誰でもできるんじゃないの?しないだけで)どこが専門的なのか懐疑的なのだ。無資格で働けるのだから仕方がないが。まだまだ職業としての専門性の確率はほど遠いけれども、介護現場で働く人の思いを知るだけでも知らないよりはいいです。

介護業界の人材不足・人手不足は誰を何をどこを直撃するのか自分自身で考えてみるよい機会です。
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アラブ人男性と結婚し、アラブ首長国連邦(UAE)に住むハムダなおこさんのエッセイ『アラブからのメッセージ』は、東日本大震災の被災者救援のため着物ショーを開催するまでの苦難を書いたものです。

UAEは2001年の同時多発テロ以来、アメリカの監視が厳しく、海外送金を伴うチャリティーイベントの開催は、国の許認可や義援金の送金ルートの確保など相当の困難であったようです。

文化の違い、常識の違い、思想の違いで生じる齟齬や誤解で苦しみつつ、壁を乗り越えてなんとか開催にこぎつけます。

観光局に着き、書類を提出するときになってスタンプを押してないことに気づき、夫に電話して1時間後にようやくスタンプを押して提出とおもいきや、そのスタンプの脇にどこそこのスタンプも必要だと言われる。「最初から言ってくれれば、夫を待つ間にそのスタンプを押しに行けたのに…なんでこんな具合にやるべきことをひとつひとつ順繰りに言うのだろう。一度に全部言えばいいじゃないか。言われた書類を言われたとおりに書いたらまだまだ先があるとは…」と、著者は深い徒労感に襲われます。

日本とはずいぶん違うな、日本なら物事が効率化されていて短時間で済むのに、と思うだろうか。あるいは、日本も似たようなものだな、と思うだろうか。

やるべきことをひとつひとつ言われて、何度も足を運んで、挙句の果てに年金不支給の憂き目にあった人多いはず…どうして必要な書類を一度に渡してくれないんだろう、どうして先に言ってくれないんだろう、言われた通りにやったのにどうしてダメだったんだろう。障害年金請求の手続きを自分でやってダメだった人の多くがそう思っているのではないでしょうか。障害年金に限らず、日本だってこのようなことは多いのです。


海外に住む人の話は、やっぱり日本がイチバンというのが多く、それを読んだ日本人の多くも、やっぱり日本がサイコー、イチバン!と自尊心や虚栄心がくすぐられるようですが、そこには他国の文化や宗教、思想などを理解しよう、認めようというという努力が全く見られません。

なおこさんは、数々の困難を試練と受け止めています。申請がようやく無事済み、観光局のあちこちの机から「おめでとう」と声があがり、担当ではない人たちも自分の苦難をずっと見ていたのだと気づきました。

海外からの観光客が最高値に達しているとか。今後労働者も増えてくるのでしょうか。難民問題はまだ他人事ですが、日本がその問題に直面したときどう対応するのか。異なる宗教や文化、価値観を持つ人たちと日本人は共生できるのか。

やっぱり日本がイチバン本とは違った面白さのある海外体験記は貴重です。



社会保険労務士など士業業界では去年から盛り上がっているマイナンバーですが、マイナンバーが割り当てられる国民のみなさんの盛り上りはどうでしょうか。

なんか他人事というかんじではないでしょうか。私自身、自分や家族のマイナンバーについては無頓着です。

会社などは、従業員のマイナンバーを漏えいさせたら大変なことになる!しっかり管理しなければ!となにがなにやらわからないながらも顧問社労士に煽られて、やれセミナーだやれ就業規則の変更だと対応に追われているところがあるかもしれない。

新聞などの一般国民向けのマイナンバーについての特集を読むと素朴な疑問などもでてくる。

マイナンバーは赤ちゃんからお年寄りまで、日本に住民票を持つ人たち一人ずつに配布されるとある。

この日本に住民票を持たない人はどれだけいるのだろうか?住民票のある場所と実際に住んでいるというかいる場所が違う人はどのくらいいるのだろうか?

福祉の最前線では住所不定の人は多い。住民票の異動をしないまま全国を転々としている人は多い。こういう人たちの支援は今後まずマイナンバーを確定してからじゃないと何も始まらないのだろうか。

家族と一緒に暮らし、普通にお勤めなどにでていると「住所」などは当たり前のもので、住民票も
当然と思う。このマイナンバーで「住所」「居所」「所在地」など、これまで同じような意味と思っていたが実は違うということがわかり、改めて「住所」って何だろう?と困惑した。

老人ホームに勤務していたころ、住所をホームに異動している人とそうでない人がいた。身寄りのない人なのか、家族がいるのか、手続き関係の事務をこなせる家族なのかで違っていたのではないか。ホームが住所の人は予防接種のお知らせや役所からの介護保険のお知らせなどはホームに来る。マイナンバーの通知もホームに届く。そうではない人は家族が書類を管理して必要ならホームに知らせる。ちゃんと考えてみたこともなかったが、しかし、「住所」がそこに住んでいることを意味するなら、1~10~年以上もホームで暮らしているのに住所がホームになっていないのはおかしい。

介護保険には住所地特例というものがある。自分の住所のある市町村(A市)の被保険者になるのが基本なのだが、特養と老健、療養型への入所の場合はその施設が別の市町村(B市)であっても保険者は元の住所地(A市)になるというものだ。住所変更が前提である。

老健が住所地特例の対象となっているということは、原則3か月の入所で自宅に戻るのが前提だから、身寄りがないからといって住所を老健にすることはできない、は間違っているということではないか。

当たり前の住所だが、こうやって考えてみると定義がいまひとつわからない。住んでいるという事実だけでは住所ではないのだろうか?住んでいる事実はなくても住民票がればそこが住所なのだろうか。

マイナンバーで露見した疑問である。

『労働判例』の表紙の裏側は労働問題に関するエッセイ・随筆になっています。りべるて・えがりて法律事務所の中野麻美弁護士が「戦後70年と働き手の自由・平等」と題して、女性たちの労働と生活が今もって、憲法や労働基準法が目指した女性解放とは程遠い状態であると書いています。

シングルマザーの実態や、改正労働者派遣法・改正労働基準法のデタラメさ、女性活躍推進法のいかがわしさにも言及しており、労働者側に立った人権主義に基づく仕事をされていることがよくわかります。

真面目で誠実な方だと思います。それだけに、ところどころみられる真っすぐさに危うさが感じられます。

昭和22年に当時の文部省が新憲法の解説のために発行した中学1年生の社会科の教科書から「日本は正しいことを他の国より先に行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません」と引用し、子どもたちは”努力すれば報われる”という信念のもとに学び、成長するに従って性別のいかんを問わずあらゆる場面で力を発揮し社会を支えてきたのです、と書いておられます。

「正しいこと(正義)ぐらい強いものはありません」は最後に繰り返されています。中野さんの信念なのだと思います。

このような信念のもとに弁護士として地道に活動されてきたのだと思います。今一歩、なぜ正しいこと(正義)は強いはずなのに、その正義が地に堕ちているのかをもっと深く追及したらさらに活躍されるのではないかと思います。

勝てば官軍というのは、嫌な言葉ですが一面では真実です。正義は勝ってこそ正義なのであり、負けて地に堕ちればもはや正義ではありません。正義であるからには勝たねばならないということです。正義は勝つ・正義は強いではあまりに牧歌的すぎます。勝てば邪悪が正義となり、負けた正義は邪悪となります。真実はどうであれ、どれだけ正義を声高に叫ぼうと誰も耳を傾けません。

正義は勝つこともあれば負けることもある。負けたから正義ではない、というのであれば負けたことに対しくどくどと苦しい言い訳をしなくてはならなくなります。

あすわか(明日の自由を守る若手弁護士の会)にも言えることで、憲法カフェなどいろんな取り組みをしておりがんばってほしいと思っていますが、なにかきっかっけがあればポキッと折れそうな脆弱さを感じます。

弁護士という法の道を究めた人たちであるだけに何かが欠けているようでとても残念です。

安保法案では多くの若者たちが皮肉にも安倍総理の横暴で政治に目覚め、大々的に反対運動を起こしましたが、昔むかしの安保強行採決のときのように、無力感に陥りやがて政治から経済へ関心が移っていったように、なにか別のものに夢中になって、デモ行進はよき思い出になっていくのでしょうか。


二日間ジャズ三昧でジャズに浸ろうと思ってビッグバンドの演奏をチェックしていたのに、ほとんど聴けなかった…

会場に行く途中「ちょっとだけ」のつもりで子ども図書館に寄ったら、延々と絵本を読むことになり、公園でお弁当を食べたらそのあとずーっと遊具で遊んで離れず、ようやく屋外の会場に着き、ゆっくり聞こうとシートを広げて横になれば、やれかくれんぼだ鬼ごっこだ、逆立ちだ人間跳び箱だ相撲だとうるさくせがみ、結局ジャズをBGMに子どもと遊び、次の日も「どーしても」とせがむので「ちょびっとだけだよ!」と念を押したのにやはり公園で1時間以上も遊び、会場に着いたら演奏が終わってて、次の演奏が始まるまで「絶対行くって言ったら行くよ!」と念を押しまくり本屋で絵本を読み、やはり遅れながらもなんとかようやく!女性2人のユニットのジャズソングを聞くことができました。その間も「お腹空いた~」「ジュ~ス~」「お肉食べたい~」とうるさかったですが。

全然ジャズに浸れませんでしたが、まいいかというかんじです。

育児・教育ジャーナリストのおおたとしまささんが、子どもと過ごす時間を計算しています。

子どもがいなくて自由に生きているように見える夫婦を見ると、うらやましいなと思うかもしれないが、子どもが親にべったりくっついているのは小学校に入るまでのこと。いずれ親などとは遊ばなくなる。仮に子どもが6歳になるまで毎週日曜日を一緒に過ごしたとしたら、日曜日は6年間で300回。人の人生は3万日といわれるので、親の人生にとって子どもと過ごす時間というのはたったの1%。土曜日をいれても2%。こどもが親にべったりくっついてくるのは、人生の中では期間限定の奇跡みたいなもの。なんとなく過ごしてはもったいない。

そのとおりです。自分の時間がないと思ったりしますが、子どもと過ごす時間だって貴重な「自分の時間」なのです。

とはいえ、まだ残り2日間。夫が休みなので丸投げしたい気分…

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