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広告代理店の営業部長の年収1800万円、メーカーの支店長の年収1400万円

1999年に書かれたリストラ対抗策についての本にでてくるオジサンたちの年収である。 バブルの時代で日経平均がマックス3万、東京の地価が空前の高値だったので一流企業で働くおじさんたちの年収が多いのは当たり前なのか…

でも他の生活物価はそれほど高くないし、多くの人の給料も最賃もさほど高くない中でこの年収って… 当時の労働側弁護士が書いた本でもあり、年収につての疑問はなく1800万から1300万に下げられ生活のレベルを落とさざるを得ない、到底許されるものではないというかんじでした。確かにそうなのですが…

リストラに抗議して社長室で包丁自殺をしたブリジストンの元社員がいたそうです。

入社以来三十有余年、ブリジストンと運命共同体として寝食を忘れ、家庭を顧みる暇もなく働き、会社を支えてきた従業員の結晶が今日のブリジストンを築き上げたのである。


企業戦士の悲痛な叫びです。

お国のために父母・妻子を捨て命を捧げてきたのにこの仕打ち…と恨む兵士と変わりません。 戦後といってもやってることは戦前と変わらないではないか…

20年も前のリストラ対抗策についての本を読んだところで、今とは状況が違うので役に立たないと思うかもしれないが、当時の常識というものがわかり面白い。 また、今ではあきらめムードが社会全体を覆っているが、この当時はまだリストラ嵐の吹き始めで「許せん!」「けしからん!」という気概があり、やや元気もでてくる。

突然やってくる会社の倒産にどう対応するかということも弁護士目線で書かれていてよい。 賃金立て替え払いはもちろんだが、倒産した会社から労働賃金債権を回収する方法など、あきらめムードとは反対のやる気に満ちたアドバイスがのっている。

休憩時間とそれに伴う拘束時間についても言及しており、20年も前の本を読んだ甲斐もあったというものだ。休憩時間がないならともかく、あるんなら文句ないだろというものではない。日本には拘束時間の概念がなく、労働時間としてカウントしていないので、大手ファースフードチェーン店などは好き勝手なことをしている。4時間労働休憩なしのパートに対し、突然今から休憩行って来いとか。シフトみたら3~4時間休憩になってたとか。

雇用と労働時間・拘束時間は切り離せない。 多様な働き方とか柔軟な働き方などとしゃれこんでみてもダメだ。

20年前の本でも読んでみるもんだ。

私は辞めません~リストラ・職場いじめ・倒産解雇の処方箋』徳住堅治(旬報者)
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調達・購買業務コンサルタント(コンサルタントってなんでもありなんですね!!)で講演家の坂口孝則さんが「マクドナルドの凋落で火がついた朝食争奪戦」という記事を書いていました。

坂口さんはアメリカに出張したとき、アメリカ人の出勤時間が早いのにびっくりしたそうです。7時にデスクについているのが当たり前だとか。ミーティングは常に朝で、そこでは皆がドーナツなどを食べていたとか。そして5時ピッタリに仕事を終えて、家族と団らんを楽しむのだということです。

日本でも朝食を外で食べる人が多く、マクドナルドのブレックファーストは一人勝ち状態だったが、マックが傾いた今、コンビニやコーヒーショップチェーン、牛丼などが次の王者を狙って激しく闘っている。という内容でした。

朝食に限らず外で物を食べない私には関係のない話なのですが、日本人がそれほど朝ごはんを外で食べているというのは意外でした。コンビニやカフェ、牛丼など様々とはいいますが、感じ方はそれぞれで、この程度の選択肢しかないのに外で食べる気にはなれん、というのが私の感想です。

でもかつて、夜勤明けでコーヒーでも飲むかと思い、マクドナルドに入ったらたまたま土日で、家族連れが多いのにびっくりはしました。土日は朝寝坊で朝食ナシかと思いきやそうでもないんですね。

お父さんと子ども、お母さんと子ども、という組み合わせが多かったような…

朝食を外で食べる云々はこの際どうでもよい。

気になるのは世の中全般の「なんでも朝早くはじめて、夜をゆっくり」という風潮である。坂口さんの記事にある、アメリカ人の朝っぱらからドーナツ食いながらミーティングって、不健康の代表のようにしか思えないが。食べればなんでもいいのか。腹がへってないからせめてドーナツなのか、朝こそドーナツなのかしらないが、そんなもん食べながらの会議に?と思わないで、これぞアメリカ!日本もこんなかんじでってことですか。

国をあげての夕活とか、朝活と違うのは中身か?朝仕事をバリバリやるのが朝活で、夕方家族団らんや趣味をバリバリやるのが夕活?なんだかよくわからないが、一億総なんとかってのがよっぽど性に合ってるようだ。

アメリカ人がみんな朝っぱらからドーナツを食べてバリバリ仕事をしているわけじゃないんだし、無理せず自分自身の常識的なやり方でいいと思うよ。

コンビニのドーナツはうまくないよ。

家でゆっくり朝ごはん食べて昼過ぎから出勤して、夜9時ぐらいに帰宅するのもいいと思うけど、流行りじゃない?

ちょっと興味のあった古市憲寿さんの『保育園義務教育化』が図書館にあったので借りてきました。おすすめの読み方のところに、忙しいお母さんは「はじめに」と1,2,7章を読んでくれたら本書の主張が伝わると書いてあったので、さして忙しくはないが面倒くさいのでその通りに読んでみました。

「はじめに」と1章では、保育所に子どもを入れることがいかに困難か、日本では子どもを育てることがまるで罰ゲームのようになっている、お母さんだって人間だ、保育園を義務化してお母さんの罪悪感をなくそう、というようなことが書かれていて、病児保育フローレンスの駒崎さんに感化されたようなかんじです。

2章は教育論についてですが、教育問題に関心のある人たちから想像以上の評価を得ているそうです。私もここは古市さんの本領を発揮しているイチバン面白いところだと思いました。(他ははじめにと1・7章だけしか読まないで言うのもなんですが…)

育児書やインターネット上の情報には、実に思い込みと自分の体験談だけで書かれているものが多く、保育や育児の世界ではトンデモ本が当たり前のように流通している。そして、信頼できそうな教科書はデータが古い。

ツッコんでくれてありがたいです。個々の体験は面白いので私は聞いたり読んだりするのは好きですが、真似しようとするのは無謀なのでしません。多くの人がそうだと思います。でもそのくせ、これこそが真の教育!とばかりに絶賛してます。

官邸で開かれている教育再生会議の議事録を読むと、会議という名の偉いオジサンたちの「私の体験」披露合戦だった。

これはよく指摘されることです。教育論になるとみんな理性がなくなる…みたいです。税制政策や経済政策において「私の経験」から発言するような大臣はいないが、教育政策ではとにかく偉い人たちの「私の経験」が幅を利かせてしまう、とは本当にその通りだと思います。でも最近思うのは、教育政策だけではなく、防衛・安全保障やその他もろもろのことが「私の経験」や「私の思い」が幅を利かせてるのではないかということです。

それはともかく。

古市さんは教育論には科学的根拠が必要だと言います。正確には教育経済学者の中室牧子さんの受け売りですが。子どもの教育実験を縦断的に観察する手法は欧米ではよくみられます。それらの実験によれば、6歳までの教育環境がこどもの一生を左右するということです。

といっても、早期教育というのではなく、集団で遊ぶ・生活するといった、それこそ保育園での生活そのもののことです。6歳までに多くの人と関わったこどもは将来犯罪を犯す率が低く、自己肯定感が強く、社会の成功者となる率が高いということです。学力は早期教育してもあまり効果がないみたいです。

文科省は「生きる力」とかあいまいなことを言っていますが、古市さんは「非認知能力」と言っています。この非認知能力が6歳までの環境で決まるということで、ここに一番カネをかけるべし、それが一番コスパがいいと主張しています。

だから保育園義務化なんだそうです。


ところで、科学的根拠は育児以外にも介護・障がい者関係でも軽んじられているように思います。縦断的に人を見て行くという悠長なことは嫌われ、こうすれば介護・保育が変わる!みたいな即効性のあるものが好かれるみたいです。まさに体験談ですが、「私の体験談」が「科学的介護」とかいって大流行りしたりするのです…

他の章も読んでみるか


「ハローワークなくなるらしいよ~」と聞いてびっくりしました。私は雇用される労働者として
ハローワークには散々お世話になってましたから。恨んだこともあったし、腹を立てたこともあったし、窓口のお姉さんの悪口を言ったこともあったけど、職探しにおいては拠り所にしてたの…(ハローワークがブラック企業ばっかし紹介してるってのはまた別の話で…)

ハローワークがなくなると言った人は「だいたい国が職業紹介するのおかしいですよ。ハローワークはそもそも雇用保険給付を行うとこですよ」とおっしゃっていたのですが、私にはその言葉は意外でした。

社労士試験の勉強をしているとき、労働に関する一般常識のところで、雇用に関する法律が色々出てくるのですが、名前が似通ってて覚えにくかったのです。職業安定だの雇用対策だの雇用安定だの雇用促進だの、なんとなくはわかるけどごっちゃになるじゃないですか!それで、職業安定法の中身を見たらもっぱら職安(ハロワ)の職業紹介について書かれているので、「はは~ん。職業安定ときたら職の斡旋、ハロワ」ってことだなというふうに覚えたのです。なのに、そもそも職の斡旋は国のやるべきことではないと言われても…

戦前の職の斡旋で私がすぐに思いつくのは、江戸時代の口入れ屋である。時代小説などによく出てくる、浪人に武家屋敷の用心棒などを斡旋するじじいとかだ。そうそう用心棒の口もなく、浪人から「何日も食うもんがない。なんかないか」とすがられて、人足仕事(土方)を紹介し、さすがの腕自慢の浪人も泣き言を言う…というのが用心棒日月抄あたりにあったような。それか、ああ野麦峠に出てくるような人さらいまがいの女衒に等しい仲介屋か。

いずれにせよ、国が職の斡旋に乗り出したのにはなんかわけがあるだろうと思っていたので、役割を終えたとか、時代に合わなくなったというならともかく、国がやるのはけしからんはどうもピンとこないのです。

愛し恋しのハロワですから気になります。どんな歴史を背負っているのやらと思い、検索してみたら、労働経済学者:神林龍さんの「なぜ職業紹介は国が行うのか」が出てきました。

ILO条約とその背後にある国際的規範がまずあるようです。ILOが営利職業紹介を原則禁止しているから禁止し、ちょっとはいいかと軟化したので、日本も営利紹介を解禁してます。ただ、それだけが理由とは考えられないということです。無料の職業紹介を求めてはいるが、営利禁止については規制の程度を選択する余地があったのです。

にもかかわらず「何人も有料で又は営利を目的として職業紹介事業を行ってはならない」としたのはなぜか。職安法の前身である職業紹介法でもすでに1938年(昭和13年)そのように規定しています。

なぜなのか。

あまりにもひどい人身売買まがい(そのものか)の職業紹介が横行していたのがひとつの理由です。『職工事情』にその有様が綴られています。これは国がなんとかせなあかん!と思ったのでしょう。国が無料で職の斡旋をすれば人身売買まがいのものはたちどころに消えうせるはず!だったのでしょうが、ことはそれほど単純ではなかったようです。

国の職業無料紹介が民間職業紹介を上回るまでけっこう時間がかかっています。

無法状態の一掃に時間がかかったのか?そうかもしれないがそうではない可能性もあるとして、次のような事情をあげています。

無法がまかり通っていた時期もあったが、1920年代以降、市民社会と市場経済の発展に伴い、職業紹介の制度が洗練されていった。発展目覚ましい紡績業界などでは、だまして連れ去り酷使するよりも、ちゃんと教育して継続的な労働力供給を目指した方がよいというかんじです。

では、このように営利紹介事業に経済的合理性が具わっているなら、1938年以降の国の独占は政治的意味合いしかなかったのか?(国家総動員で戦争をしているので、軍需工場などの労働力を調達しやすくする)ということになるが、神林さんは早急に短絡な回答を出すことをしていません。

まず考えられることとして、戦前において営利紹介で効率性が保たれた分野は限定的であったということです。なので民間に任せっきりでは紹介者の逸脱行動を抑えられないと判断した。ただ、これだけではまだ営利紹介禁止の根拠とはならないとし、歴史的プロセスに焦点を当てています。

紡績業のようなうまく機能した営利紹介は後に国営紹介に吸収されています。

求職や求人の情報の蓄積と信頼関係の構築が必要な職業紹介業務は一朝一夕に算入できるものではなく、それは公営組織とて同じことである。国営紹介網を発達させる手っ取り早い方法は、営利事業を法律で禁止し、既存の民間組織を吸収・再編することだったのではないか。国家総動員体制は、そのような強権を発動するのに適した政治的状況だったのであろう。というのが神林さんの導き出した結論です。

ハローワークは全然ダメだ。非効率的だ。あんなとこ行ってもろくな仕事がないという悪口は一面においてはそのとおりかもしれない。学卒の若い人などはハロワといえば負け組・惨め・失業したヤツがいくところ(あんた失業しとるやろ?と言いたいですが)と散々な言い草だが、だからといってインターネットやスーパーにあるフリーペーパーの求人情報がそれほどいいかと言われたら、労使ともにほんとはおおいに疑問があるのではないか。

神林さんは最後に、職業紹介に国がどの程度関与すべきかを考えるのであれば、歴史的な事情を念頭に置くことも必要になってくると言っています。

ハロワがんばれよ~
ついでに言うが、非正規でも再任用でもちゃんとやれよ~

日本では食品の廃棄量が非常に多いということは知っていましたが、その内訳はあまり知りませんでした。賞味期限や消費期限が切れたものが多いとは聞いていましたが、一番多いのは、野菜の皮を厚くむく・へたを大きく切る・肉の脂を過剰に取り除くなどの「過剰除去」だそうで(55%)次に多いのが「食べ残し」27%、期限切れなどでの「直接廃棄」18%ということです。

過剰除去は私もやりがちなので気を付けようとは思っていますが、農薬などが心配でつい皮を厚くむいてしまうんです。皮を食べることも同じ理由でほとんどしないです。食べ残しと直接廃棄を極力避けるのがいいと思います。私はどっちも滅多にないですが。

外食で食べきれずに残ったものをどうしますか?というアンケートを大学生に対し行った人がいるのです。

「食べ残しを持ち帰るのは恥ずかしいと思う」「食べ残しを持ち帰らない家があるとは知らなかった」という相反する感想が書かれていたそうです。子どものときからの習慣が影響しているようです。

私はとにかく貧乏性で(実際に貧乏でもあるんですが!)外食時食べきれないほど注文をするなんてことはまずないです。多少、いやかなりお腹が苦しいなと思っても「もったいない!」と思って食べます。持ち帰るという方法は知らなかったです…思いつかなかった…
焼肉や寿司などの店で他の家族を見てると、すごい数量がテーブルに乗っていて驚きます。
激安スーパーでの大量の買い物にも驚きます。

貧困家庭によく見られる光景ではないかと思うのです。

なぜ多く注文し過ぎてしまうのか、なぜそこまで大量に買い込んでしまうのか。単なる浪費とばかりもいえない面があると思います。

食べることと生きることは切り離せないものです。捨てることも含めて食べ物について真剣に考えるべきではないかと思うのです。断捨離すればいいって?TPPで外国の安い食品が手に入るようになり食生活が豊かになるので、今後ますます捨てるノウハウが流行るって?

残念ながらそうかもしれない。

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