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客観的な事実と自分の認識のどちらが本当なのか。ずいぶん前から気になっていました。小学校3年生のとき、昼休みの後の掃除の時間に階段を箒で掃いていると、この手を動かしている・この手を見ているのは誰なんだろうと突然疑問に思いました。小学校に入学して以来、教師という他人から罵倒されたり殴打されたりするたびにじっと嵐が過ぎ去るのを待っている自分って誰なのだろうと思ったのです。たいていは忘れていますが、疑問としてはずーっと残っていたのです。

世界は自分の認識とは無関係にただ事実として存在するのか、それとも自分が目を閉じれば世界は存在しないのか。そこのところがどうしてもわからないのです。

自分の認識と関係なく世界は事実として存在してる。この考え方のほうがわかりやすいし、真実に近い気がするのですが、そうすると自分にはいったい何の意味があるのかということになってしまうのです。やる気が失せるというかんじです。

自分の認識がすべて。そうなのかもしれないが、不安だし、これまたやる気が失せる。自分が幕を閉じればはい終了というのは、結局のところ世界は自分の認識とは関係なく存在していると同じことなのです。

ドイツの動物行動学者ユクスキュルは、「動物たちはそれぞれの環世界(環境みたいなものかな)を持っていて、それは現実の姿とは違う。人間が見て捉えて把握しているものを現実とすれば、動物たちがそれぞれに捉えているものは現実でなく、きわめて限定された主観的なものである。しかし、それは動物たちにとっての現実である」という環世界なる概念を唱えたそうだ。

客観的であることは、社会人としての成熟度を測る重要な尺度であるように思う。ただ、何が客観的なのか?ということに対しては正直なところよくわからない。裁判であれば裁判官が判断してくれる。納得はいかなくたって、裁判官が客観的に合理的だの不合理だのと判断すれば、最高裁の判決であれば受け入れるしかない。

他人であれ、犬や猫、カエルやイモリなど他の動物であれ、自分以外のものはこの世界をどう見ているのか・見えているのか(人間や哺乳類なら何を思い、どう感じているのかも)というのはとても気になることです。

で、世界と自分の認識ですが、世界は自分とは関係なく存在しているけれども、自分が世界にコミットしなければ世界は存在しないということで。

異生物が目覚めはじめるころなので静寂世界もそろそろ終わる…




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