忍者ブログ
記事タイトル一覧
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コーヒーショップ経営者のための情報誌に、年4回発行の『珈琲と文化』がある。ときどき利用する専門店に置いてあり、コーヒー好きの私はいつもパラパラと眺めている。

2015年冬号は記念すべき100号となっているので、創刊は25年前の1990年(平成2年)である。

平成元年が1989年で、私は高3だった。新潟に旅行に行ったときにドトールコーヒに出会い、150円(当時)という安さとエスプレッソコーヒーのおいしさにびっくりしたことをよく覚えている。高1のころからコーヒー好きであったが、当時地元の富山では、まだコーヒーは純喫茶のようなところか珈琲専科なる店でしか飲めなかった。家でヘタクソなドリップを淹れていたがインスタントコーヒーで我慢することも多かった。

マクドナルドやミスタードーナツのような店ではすでに安価なコーヒーはあったと思うのだが、今と違いファーストフード店やファミレスなどでコーヒーを飲むという発想がなかったので、店を利用しても注文したことさえなかった。

『珈琲と文化』では、コーヒーアドバイザーの柄沢和雄さんが、「コーヒー戦争に算入した企業と外国企業」というタイトルで興味深い記事を書いている。

それはマックの100円コーヒーから始まった

柄沢さんは、マックの100円コーヒー戦略は見事だったとし、勝因をあげている。

1ネーミングがスマート

プレミアム・ロースト・コーヒーは、長いネーミングだが、一つ一つを区切っても真新しさはない。長いメニューにしてつなげたところが斬新でウケた。喫茶・コーヒー業界の意表をついた。

2焙煎専門家を招いてハード面を研究した

ハンバーガーチェーンはソフトが売り物でハードは裏方。しかし、品質・焙煎・抽出を研究し、プレミアムを強調して宣伝に力を入れ、客を納得させた。

(マックの主婦クルーがミスドのコーヒーはまずいけどマックのはおいしいとよく言っていた。その後ミスタードーナツも長らく提供していたアメリカンコーヒーをやめて、おいしいコーヒーに切り替えた。)

3容器のデザインが女性好みだった

ダークブラウンとライトブラウンの配色がおしゃれで、女性がテイクアウトするのに抵抗がなかった。

4コーヒーだけの注文をしやすくした

テイクアウトをはじめ、店内でコーヒーだけを飲む。以前には考えられないことだった。コーヒーの来客数が増え、ついで買いが増える。特にモーニングタイムには効果があった。

(当時のCEO原田氏によれば、プレミアムローストコーヒーはビッグマックを売るために開発された商品であるとのこと)

5プレミアムローストコーヒーはおいしいといわしめた

嗜好性の強いコーヒーのうまい・おいしいの評価は千差万別だが、カップテストなどできない客はカネを払って一杯のコーヒーを判断する。その客が「おいしい」と判断した。

(買いたいコーヒー№1(オリコン調べ)を獲得しています。スペシャリテコーヒーなる部門でも売り上げシェア№1になったとか)

柄沢さんは、後期高齢者と思われる老夫婦が200円を出し、マックのプレミアムローストコーヒーを2個注文しているシーンを目撃したとき、目頭がジーンとしたそうです。カッコ書きで、これからはコーヒーの注文の仕方は変わっていくだろうな、となっています。(コーヒーの専門家として、何にジーンときたのか、私にはよくわからないのですが…)実際そのとおりでした。マックに同調するファーストフード業界は少なかったが、コンビニ業界が目をつけ大発展しています。

コーヒーが好きで、生活必需品でありながら、コーヒーを当たり前のものとしてさしてありがたくも思わず、愛情も持っていなかった私としては、柄沢さんのコーヒーを愛する姿勢にちょっと心を打たれました。

しかし、実はコーヒーよりも関心があったのは、マクドナルドのことでした。飛ぶ鳥を落とす勢いのときには礼賛し媚びへつらうが、落ちぶれた途端転倒した者を足蹴にするような風潮の中、かつての業績を認めるその姿勢は評価に値します。

マクドナルドがコーヒー業界に与えた影響はよくも悪くも大きかったようですが、自社に与えた影響は予想外だったのではないかと思います。立地上ドリンクでねばる客が多く、利益が出ず撤退という店舗はあったと思いますが、プレミアムローストコーヒーはどの店舗にもドリンクでねばる客を増やしたのではないかと思うのですが…柄沢さんがジーンときたという老夫婦の光景は今や珍しくはなく、ついで買いも期待できず、100円マックしか注文しない客とコーヒーだけ注文しておにぎりとかを食べる低所得の人に座席が占領されている…かもしれない。

お年寄り向けにもっと安い商品を開発したらいいんでないか?ポテトをもっと安くするとか…手間もかからないしタイムリミットを長くして大量に揚げたらいいんじゃないか?お年寄りは健康よりもその日の暮らしがより切実なんでショートニングも気にしないと思うよ。

ファミリー向けにあこぎなことやるよりお年寄りに優しくしたほうがいいって。




PR

北陸の冬は天候に恵まれていない。この年末年始も天気予報では悪天候となっていたので、家の中で掃除や整理整頓の続きでもするか…と思っていたのだが、思いのほか好天に恵まれた。

この時期は3時を過ぎると夕方なので、昼食後おひさまぽかぽかの青空に小躍りしながら6歳の娘と公園に走った。

だーれもおらず、べちょべちょの遊具で遊び放題だった。しばらくすると、親子連れがやってきて、お父さんとお母さんが仲良く凧揚げを始めた。娘はそれをみて「いいな、いいな、タコさんやりたい~~~」と切なそうな顔で訴えるので、近くのディスカウントスーパーの100均コーナーへ行き、凧を購入する。代金は娘のお年玉…

全然できないのに自分でやる!といってきかず、引きずってる娘と、いっぺん貸しなさい!と言ってやってみるがやはり全然できない母。見かねたよそ様のお父さんが「凧揚げにはね、コツがあるんだよ。場所を選ばなきゃ。反対側からやってごらん」と教えてくれ、ようやく凧があがりました。

娘はすっかり喜んで「じょうずにできた!」と自慢顔でした。そして、こう言い足しました。「お店やっててよかったね~。ママお正月はどこもお休みって言ってたけど、みんなお仕事してるね」

ほんとですね。カネを使わないように、娘には「お正月はみんなお家でお休みしてるの。お店はやってないよ」と言っておいたのですが、カネを使わなくてもいい公共の施設などは休みですが、カネを使う商業施設はやってるんですね。

保育士をやっていたころ、大晦日やお正月に子どもを保育園に預ける親は非難と同情の的でした。年末年始も仕事とはね…子どもがかわいそう、ってかんじです。老人ホームに勤務してた頃は軽度の人でも家に帰ることは少なかったです。なのに職員だけは休暇体制で仕事がキツかったです。

商業施設が営業していれば働く人が必要なわけです。小さな子どもがいて家で見てくれる人がいなくても出なきゃいけないこともあります。営業していても誰も来なけりゃ次回からはやらないでしょうが、みんな行きます。年末年始が休みの人は家でじっとしているわけではなく、商業施設などへ行き、なんらかのサービスを受けるのです。旅行なども同じです。自分たちがサービスを受けられるのはサービスを提供する人たちがいるからです。

不便は仕方がない、みんなが休めたらいい。そういう考え方もありですが、全然浸透していないです。今日は自分が休みだからサービスを受けているけど、別の日は自分がサービスを提供する側だからお互いさまだね、というのでもない。不便なのは嫌だし、人の犠牲でサービスされるのも後味悪い。誰かなんとかしたら?みんなが輝かないと不公平だよね。みんなが平等に休むべきじゃない?税の公平な配分が必要よね。でも増税はいやだけど。

お店やってなかったらどうなってたかな。凧揚げできなかったかもしれない。でもだからどうなんだ。やってなければやってないでいいし、凧揚げができなければできないでいい。でも、やってたので凧揚げができた。ありがたい…

労働と消費の切っても切れない関係

どんな本を読んでいるかでその人のことがわかる…だったっけ?月に本を1冊も読まない社会人が半数近いということなので、相手を知る方法としてあまり有効ではない気もするが…

それでもこの正月休暇にまとめていろいろ読もうと思っている人も多いようです。読む人は読むし、読まない人は全然読まないという、両極端になってるのかも。

私は情報のほとんどを書籍から得ているので、他の人がどんな本を読んでいるのか、読みたいと思っているのか、どんな本を所有しているのか、繰り返し読んでいる本は何か、ということにとても関心があります。

「休暇に読みたい本」にいわゆるビジネス書を挙げている方がいてびっくりします。お休み中なのにビジネス書!?ってかんじです。

えーっと、私は10年くらい前までちょっとカン違いしてたので、念のため確認しときます。私のいうビジネス書は、新聞のビジネス書売り上げランキングに載ってるような、自己啓発本を含んだものです。経営陣が読む経済書や政治に関するもの、経営戦略など、帝王学のようなものだけじゃなく、早起きでスキルアップみたいなのもです。

みんな知ってるとは思いますが、念のためです!!

ビジネス書って方法論が多いようですが、お正月にビジネスの方法論を学ぶのか…できる人は違うな…やはり人様の読む本を知る価値はあります。

きっと気分転換は本以外でやってるんだろうな。

意識の高い人たちというのは、ビジネス書を読んだり、ビジネス関係のセミナーを受講したり、常に仕事に直結することをインプットしているのだな。

素晴らしいこととは思うが、やはり人にはそれぞれのやり方があって、自分には真似できない。

オンライン講座のgaccoも、ビジネス関連の講座が多く、2~3回受講してみたが、本で読めば早いのに人の話を動画で聞いてるだけなんて退屈で苦痛で続けられなかったです。

IPS細胞や3Dプリンター、脳科学、中世の歴史とかなら面白く聞けても、ビジネス関係はほんと退屈で無理でした…

仕事が始まったらビジネス書の一つでも読んでみようと思います!!

とりあえずお正月は子どもと遊んで、算数の本とセネガルとケニアとインドとエジプトとイタリアの子どもたちの本と昔むかしのローマの本を読んで気分転換して仕事に備えるつもりです。(仕事中も同じような本を読んでますが…)



発達障害って、今旬な話題なのでしょうか…?

生きづらさを感じている大人が、メディアの情報などを見て「もしかして自分は発達障害では?」と思って、受診するケースが増えていると聞くが…

やる気がないとか、協調性がないとか、身勝手とか、全部自己責任にされるよりは、障害として理解し受け入れてもらったほうがいいに違いないのだけど…

でもレッテル貼ってそれで終わってるかんじもするな。

どんぐり発達クリニック院長の宮尾益知さんが、著書『家族をラクにする魔法の言葉』のなかで、発達障害について、なるほど。と思うことを言っています。

宮尾さんは、発達障害など心に問題を抱えた子どもたちを8000人以上治療し、両親をカウンセリングする中で、アスペルガー症候群と思われるお父さんに数多く出会ったそうです。

アスペルガー症候群とは、発達障害の一種で、「社会性」「コミュニケーション」「想像性」の障害のことです。

とはいっても、その特徴は特殊なものではなく、ごく一般的な男性の特徴に近い、と宮尾さんは言います。

「マイペース」「何事にも合理的な解釈を下す」「創造するのは苦手だが、決められた枠組みでは高いパフォーマンスを発揮する」などです。

アスペルガー症候群には知的障害は見られず、むしろ論理的で即断即決のビジネスの場ばでは高い能力を発揮する場合がある。しかし、家庭はビジネスの世界とは違い、損得だけでは推し量れないので、そこの区別がうまくつかず、家庭内でコミュニケーション不全が起きやすい。

なるほど。

うちの子(あるいはうちのだんな)仕事で高い能力は発揮してないけど、職場でも家庭でもコミュニケーション不全はバッチシやわ~という方も多いとは思いますが、あくまでも高い能力を発揮する場合もあるということで…

宮尾さんの現代家族観も、SNSでの幸せ合戦に疲れを感じているママさんには救いとなるかもよ…(幸せ合戦に参加できない私でさえ(薄幸・不幸合戦ならイケますよ~)、うんうんそうよね!と納得したもの)

そもそも、家族はもちろん、すべての生身の人間関係において固定化されたロールモデルというのは、本来存在せず幻想にすぎない。「いい家族」とは、その家族にとって「いい家族」であって、それは個々の夫婦や家族で作り上げていくもの。

そうなんですそうなんですそうなんです~~~

では、いい家族を作るのに必要なのは何でしょうか?

相互コミュニケーションと思いやり!だそうです。

よし!行政主催の家族コミュニケーション講座に参加してみるか!通信教育で思いやりの親学なんてのがあったな、受講してみるか。会社でも今度コミュニケーションをテーマにした研修があったぞ、家族にも応用できるな。正月はコミュニケーション関連の書籍を読破するぞ!コミュニケーションの勉強するんだし邪魔すんじゃねえぞ!ママとイオンでも行ってこい!

……

宮尾先生の言ってるのはこんなんじゃないんですが…

でも、職場でも同じですよね。製造業からサービス業まで、猫も杓子もコミュニケーション。研修会社にバカ高いカネを払って、貴重な時間を費やしてコミュニケーションを教わってます。

認知症の人とのコミュニケーション方法は?
発達障害者とのコミュニケーション方法は?

では、よいお年を!

一人が不適切なことをしたせいで、多くの同業者が迷惑を被る。どの業界でも起き得ることである。悪いイメージを持たれ仕事が減った、売り上げが一時的に落ちた…ということもあるかもしれない。だから自分たちもまた被害者である、と思う人もいるかもしれない。

だが、今回のうつ病追い込み社労士事件の被害者は社会保険労務士ではない。

どれほど他の社労士に迷惑がかかっていようが、社労士は被害者ではない。

自分が言ったこと、やったことが多くの人に迷惑をかけてしまうおそれがある。そのことは十分自覚するべきことと思う。結果として業界に多大な悪影響を及ぼしてしまったのなら、しかるべき処分を受けて当然だと思う。

そして、私たちは一人のアホな社労士がやったアホなこととして、世間といっしょになって被害者ヅラするのではなく、自分たちの業界の不祥事として真剣に受け止めるべきではないか。

社会の中で生きて行くということは、例えば私なら、日本人であり、女性であり妻であり母であり、社会保険労務士であり、地元住民であり、児童福祉関連に首を突っ込む者であり、仏教徒であり…とそれぞれの場でいろんな役割を担っている。

日本人が海外で不祥事を起こせば、自分は関係ないと思ったって、海外の人は「だからニッポン人は~~」と思う。小さな子を持つ働く母が、子どもを放置して仕事をしていたら、自分はそうじゃなくても「女性活躍で浮かれてんじゃんねえよ。子どもの面倒も見れねえでなにが仕事だ!」と非難されるかもしれない。

ISや一部の教条主義に陥っているイスラム教徒のおかげで、どれだけ多くの罪もないイスラム教徒が迫害されているか。行儀のいい中国人だっているのに、そうではない中国人のおかげでどれだけ良識ある中国人が迷惑を被っているか。

自分は自分。国籍や人種、職種、性別なんて関係ない。そう思ったって、一旦事が起きれば、自分の出身国、民族、性別、職種などを意識せずにはいられなくなってしまう。否応なく属性に引きずられてしまう。巻き込まれてしまう。

平穏な日常をぶち壊しにされ、恨みつらみは大きいが、一部の不届きものが起こしたこと、などと他人事のように言っていられない状況になってしまうのだ。

自分が勤務する会社がすごい不祥事を起こして社会に巨大な損失を与えたら、自分は被害者だろうか?自分が勤務する福祉施設で、職員が利用者を暴行によって殺害してしまったら、自分は無関係なのだろうか?自分の属ずる業界の誰かが、顧客をだまして利益をあげていたらそれはその人の勝手なのだろうか?

正義ヅラ・被害者ヅラ・傍観の決め込みは浅ましく見苦しい。

プロフィール

HN:
みょうみょう
性別:
非公開

 

カテゴリー

 

P R

 

記事一覧